『己を殺せば、自分が出る』
『己を殺せば、自分が出る』 いつかNHKの番組『プロフェッショナル』で京都の有名な寺院の庭を引き受ける庭師さんが仰っていた言葉です。 長い長い時代を経て今も存在する建造物とその庭に、今の時代を生きる自分が対峙する時、例えば樹齢何百年の樹木を伐採する場合、やはり相当の心意気が要るのだそうです。
今までこの景観を守ってきた歴代の庭師さん達に恥じない仕事を、とつい意気込んでしまうのかもしれません。 ここで『己』をグリグリ出してしまえば、もしかして小さな自分の小さなこだわりが歴史的景観を壊すことに繋がってしまうのでは、という恐怖感も生まれてくるでしょう。 また、自然物として刻々と姿形を変える草木の状態と向き合うこと、それを踏まえた上で伝統を守ること、この矛盾を抱え続ける心労はいかばかりかと思います。
しかし、その仕事を任された以上、その庭師さんの仕事として世間では認知されるわけですから、これは大変なプレッシャーです。 そこでこの言葉です。『己を殺せば自分が出る』
自分の『こうあるべき』といった小さなこだわりや好みを一切排除し、樹齢何百年の大木を伐採するかどうかを決断する、これが多分歴代の庭師さん達の行きついた境地だったと思うのです。 しかしそれが、なんと対外的にはその庭師さん独自の作品となり、後世に引き継がれるわけですね。 どうです?己を殺せば、結果的に自分が出てきてしまうというこの矛盾!
これを歌の世界に置き換えてみると、歴代の国民的レベルの歌手達は皆、無私の心で聴衆の為に歌っていたように感じます。 例えば、美空ひばり、ビリー・ホリデイ、エディット・ピアフ等々、 皆、お金や名声や所有物に全く執着せず、ただ命の続く限り身を削るようにして歌っていました。そして今もその歌声は色褪せることがない。
あの強烈な個性は、『己を捨てていた』から出てきたものかもしれませんね。 多分、個性は能動的に『出すもの』ではなく、自分がすべてのこだわりを捨てたとき、自然に『匂い立つもの』、『醸し出されるもの』なんですよね。
他の分野でのこういったお話は、音楽と置き換えたらどうかな、と常に考えるクセがついてしまいました。
鈴木智香子 拝