はぁー、扱っているタイトルのスケールの大きさに、今更ながら頭を抱えております(汗)。というわけで、今回のブログを挙げるのに、ああでもない、こうでもない、と書いては消し、書いては消ししている間に、とんでもない時間を費やしてしまいました…。前回のブログでは、『モダン・ジャズの祖』であるルイ・アームストロングから多大な影響を受けたジャズボーカリストの代表格、ビリー・ホリデイとフランク・シナトラをご紹介しました。「じゃあ、ルイが出てくる前はアメリカのジャズボーカル界ってどんな状況だったの?」という疑問があると思います。そりゃそうでしょう、というわけで、観て、聴いてもらうのが一番手っ取り早いですね。またYouTubeをフル活用して、ご案内していきたいと思います......。
ルイ・アームストロング以前の歌手達
当時、ジャズボーカルというジャンルはまだはっきりと確立されておらず、正直、カテゴリー分けがものすごく難しいです。したがって、ここではジャズボーカルの前身となったものや、『モダン』という言葉がつく前の古いスタイルで歌うジャズボーカリストを中心にご紹介してまいりたいと思います。
エセル・マーマン 舞台仕込みのパワフルボイスが売りのミュージカル歌手。ブロードウェイのファーストレディと呼ばれた。
アデレイド・ホール You gave me everying but love(1929)
伸びやかで完璧にコントロールされた美声を売りにしたジャズシンガー。表現が大袈裟でビブラートを多用する。デューク・エリントン楽団の専属歌手。
ベッシー・スミス セントルイス・ブルース(1929)
大声を張り上げて歌うタイプのブルースシンガー。PA(音響)技術が充分でなかった時代、歌手は声量があることが必須条件だった。
ボズウェル・シスターズ(1934) ロック&ロール
3人姉妹のジャズコーラスグループ。完璧なコーラスワークで人気を博した。
というように、ブロードウェイのミュージカル歌手、ジャズビッグバンドの専属歌手、ジャズコーラスグループなど、卓越したテクニックや美しい声が売りの歌手達が多くを占めていました。この人たちは、ジャズに不可欠な要素であるインプロヴィゼーション(即興性)を持たない歌、つまり何度も厳しい稽古やリハーサルを繰り返した、いわゆる『完成された作品』をステージで歌っていたのですね。
またその一方で、即興性を備え、ジャズの源となるブルースを歌う歌手も活躍していました。
ジャズボーカルにも即興(アドリブ)が!
上記のような歌手たちの存在を踏まえた上で、ルイ・アームストロング以降のジャズボーカリスト達の歌唱スタイルの決定的な違いを申し上げるとすると、やはり『楽器のように歌っているか否か』ということであります。
以前のブログにも書いた通り、『ジャズ』というジャンルは、まずルイの演奏するトランペットを基本とする楽器演奏から始まったのであり、それを傍で聴いていて『(歌詞という制約はあるけれど)楽器プレイヤー達が演奏するように、それを自分の声を使って自由に歌いたい』と思ったボーカリスト達の歌が、『ジャズ』から派生した『ジャズボーカル』なのであります。
そして、その楽器のようなボーカルスタイルは当然、アドリブの要素が強いわけで、上記のようなジャンルの歌手達の歌に比べると『(予め準備できないので)どこまでも不完全な作品』ということになります。しかしこの、その場で今日のメンバー(昨日までは別のプレイヤーと別の場所で演奏していたような)と共に創りだす瞬間芸術こそが、ジャズ演奏やジャズボーカルの醍醐味、ということになりまする。
なので日本各地、いや世界各地にジャズのライブハウスが点在しているということは、その場にわざわざ足を運んで、ステージ上で音を出すまでどうなるか全く予測のつかない『LIVE(ナマ)』な演奏を楽しむ、という、家で音楽CDを聴く(再生する)こととは、全く異なる目的があるのですね。
練習の成果をよどみなく披露するのが、クラシックやオペラやミュージカルや歌謡曲。
練習を一切忘れて、今日会ったメンバーと新しいことに挑戦するのがジャズ(ボーカル)。
【おまけ】映像で見るモダンジャズ前夜の時代
余談ですが、映画でも当時の音楽をうかがい知る事ができますよ。ご参考資料としてどうぞ。
『カラーパープル』
粗末なライブハウスでブルースシンガーが煽情的な歌を歌っている場面。当時の歌手は娼婦と変わらない扱いをうけていた地域もあったらしい。
1920年頃。
『ショウボート』ミシシッピ河沿岸の町を巡業する劇場船ショウボート。1910年頃。ラジオもレコードも無い時代のアメリカのエンターテイメント、それはサーカス団や劇団のような地方巡業だった。アメリカのポピュラーミュージックの源泉といえる。
『ジャズ・シンガー(1927)』トーキー映画第1号の作品より。ユダヤ人俳優アル・ジョルスンが顔を黒く塗って黒人に変装して歌っているシーン。アメリカでは1830年代頃から、この映像のような白人が黒人に変装して歌や踊りを披露する『ミンストレル・ショー』が各地を巡業し、全米に浸透していた。
『コットン・クラブ』
1920年代のニューヨークのジャズクラブ周辺の人々を描いた映画。
当時の黒人の立場、マフィアと興業の繋がり丁寧に描かれている。
上記のような映像に出てくる音楽の内容、歌唱スタイル、背景などを観てみると、まず「(洗練される前の)スタイルの古さ」や、アメリカのある地域に限り、局地的に人気のあったのではないかと思われる「ローカルさ」を感じます(もしジャズがこのまま進化しなかったとしたら、ニューオリンズ発のカントリーミュージックとなっていたでしょう)。そして当時の歌手達の社会的地位や認知度が、彼らの才能と反比例して、それほど高くない感じを受けます。
しかしこの後、ルイ・アームストロングという名のいち黒人トランペッターがポッと出現した事により、いちジャンルに過ぎなかったアメリカの音楽「ジャズ」が洗練され、本国アメリカだけでなく、全世界(特にアメリカより長い国の歴史を持つヨーロッパ諸国や日本など)に波及し人気を博したことや、ルイの創ったジャズスタイルがその後のポピュラー音楽にも多大な影響を与えたことなどを考えると、やはりルイ・アームストロングの遺したものは計り知れないのであります。